肉はどこから

狩猟
猪のベーコン

食材への興味

カラフルで瑞々しい野菜達。
澄んだ目をした光り輝く魚達。
子供の頃からスーパーの食品コーナーが好きでワクワクしていた。

どの店へ行けば鮮度の良い食材が安く手に入るのか?
この調味料や加工食材は何から出来ているのか?
下手クソで構わないから、
いつか全ての製造工程に関わって、
始まりから終わりまでをこの目で見てみたい。
そんな事は出来る訳がないと分かっていながら、
今もついつい原材料が記載されたラベルを見てしまう。

幼稚園児の頃、キャベツを買ってくるように初めておつかいを頼まれた。
意気揚々とスーパーへ向かったのだが、
隣のレタスとの区別がつかず、親切な店員に助けてもらうまで半泣きでオロオロしていた。
どちらの緑の玉が正解なのかが全く分からず絶望した事を、今でもよく覚えている。

小学生の頃、ニジマス釣りに渓流へ行けばアブに刺されて泣き、
海へ五目釣りに行けばゴンズイに刺されて泣いた。
それでもやっぱり釣りが好きで、いつだって釣りたての魚に目を輝かせる。

中学生の頃、揚げ物は火事の危険があるからと、許可を出さない親と本気で喧嘩した。
だって、中学に上がったら高温の油を扱って良しと言われていたから。
やっぱりダメなんて通用しない。
何年待ったと思ってるんだ。

高校生の頃、原材料通り小麦粉と塩だけでうどんが作れた事に感動した。
家庭科の授業で、
冷やし中華に芥子がよく合う事を学び衝撃を受けた。

進学科だったのに英語・数学・化学は惨憺たる物。
その代わり、家庭科はぶっちぎりでトップだった。

大学に入り1人暮らしを始めてからは完全自炊生活。
悪友達の中では料理担当。
激安焼酎のジュース割りをしこたま飲みながらおつまみを作り続けた。
生の魚に触れられない人間がこの世にいる事を初めて知った。

人生初の海外旅行はアメリカ。
やはり食べ物の事ばかり覚えている。

ユニバーサルスタジオのアトラクションより、
ドクターペッパーの香りと甘み。

メジャーリーグの試合より、
値段の割にボソボソのホットドッグ。

ディズニーランドの巨大ネズミ達より、
高過ぎて購入を断念した
ハンバーガー。
黒ずんだ切り身の回転寿司。
信じられない位においしかった搾りたてのオレンジジュース。

食べられるなら何でも良いという訳ではない。
昆虫食にはまるで興味が沸かない。
だが、食への執着は幼少期よりかなり強い方だったように思う。
命ある物と、それらを自ら調理して食べてみる事への興味が尽きない。

ただ、肉に対しては長らく関心が薄いままだった。
『とてもおいしいもの』
それ以上の認識がどうしても持てなかった。

ブツ切りの命

なぜだろう?

ヒマだったのだろうか。
料理に飽きていたのだろうか。
疑問を抱くようになったのは社会人になってから。

野菜より魚より、
遥かに肉の方が好きだったというのに。

高ければ高いほど柔らかく美味しい事は知っていたというのに。
スーパーに並ぶ綺麗な赤身や脂身に対し、
野菜や魚ほどワクワクしなかったのはなぜ?

生産国と100g当たりの値段以外に興味が沸かなかったのはなぜ?

なぜ?
なぜ?
何年も何年も答え探しをしていた。

常に考え続けていた訳では無かった。
ただ年に数回、なにかの拍子にふと思い出す。

なぜ?
なぜ?
そしてある日、気が付いた。

・・・・元あった命から、かけ離れた形だからか?

畑で収穫した野菜を料理した事はある。
海や川で釣った魚を料理した事もある。
仮にそういった経験が無かったとしても、
野菜や魚はその物の形のままスーパーに陳列されており、
いつだって見る事ができる。

だから、千切りにされたキャベツを見た瞬間、
元がどんな形をしていて、
それがどのように変化したのかを即座に理解できる。

同様に、筒切りにされた鮭を見た瞬間、
元はどの部分だったのか即座に理解できる。
それそのものが辿った過程が分かる。

だが肉は違う。
肉となる前はどういう存在だったのか?
命が消える瞬間とその後を、
実際にこの目で見た事が無い。

だから、過程が分からない。

そりゃあ確かに、
脚のついた動物の形はイメージできる。

モモ→脚の一部
バラ→腹の一部
それも分かる。
地域や国によっては、
家畜の顔の皮や足等が普通に売られている事は知っている。
テレビで見た。
豚の耳も牛の尾も鶏のトサカも食材になるのは知っている。
Youtubeで見た。


しかし・・自分の目では見ていない。
身の回りの食習慣の中で、

肉となる直前の動物としての姿、
そして動物だった物がその後、肉となっていくまでの様子を見かけた事は1度たりとも無かった。

動物が肉になるって・・どういう事だ?
『肉は肉』
それ以上も以下もない。
命の繋がりが分断されているので、ただ肉としか認識できない。

塊の肉。
薄切りの肉。
これ・・元の形は何だったんだ?
テレビや動物園で見るあの動物達は、一体どこから肉になったのだ?

わざわざそんな事を考える奴は極少数だろう。
それを確かめるために行動に移すなんてどれだけ暇なのかと言われそうだ。
大多数からは変人扱いされるのかも知れないなと不安になった。

・・でも我慢できなかった。
知りたかった。
俺は一体何を喜んで食ってきたんだ?

だから狩猟を始めた。

動物を捌かないのは当たり前?

透明な罪

山へ入るようになってからずいぶん経つ。
スーパーでは肉を全く買わなくなった。

だって充分、ジビエ専用の冷凍庫にあるのだから。

たまに気まぐれで精肉コーナーを覗き、
陳列された美しい肉を眺めてみる。

ただただ美味しそうでただただ美しい。
そんな売られ方をしている。

狩猟を始めた後に感じた事を表現してみるなら、
羽や毛は不衛生だからとか、
そのままじゃ食品トレーに収まり切らないとか、
そういった理由とは別の意図を感じる。
それが命ある物だった事を一切感じさせまいとする配慮がなされていると感じる。

肉となる前に間違いなく存在していた、
姿形は違えど、自分と同じ色の血が通った動物の命。

その動物達の怒りの雄叫びや絶望の悲鳴は、
整然と並ぶ美しい肉からは中々見えてこない。


見せたくないのだろう。
罪悪感を感じさせたくないのだろう。
それは購買意欲を損ねる事にしかならないから。

命を奪った経験も大した根拠も無く変に正義漢ぶっていた時は、
『隠さず全部見せろよ~』
とか思っていたが、今では、
『不自然ではあるのだろうけれどそれも正解だ』
という別の視点も持っている。

皆が皆、命を奪う行為とそれが消えゆく瞬間を見るべきだとは思わない。
初めて獲物の命を奪った直後、罪悪感ですぐさま狩猟をやめたくなった。
「(なんて可哀そうな事をしてしまったのだ・・)」
と、激しく後悔した。

そんな身としては、
『ああこの方法だって、人間が肉を食って生きて行くための在り方の1つなのだ』
と感じている。
「寿司は好きだが魚に触れるのは嫌。」
そんな人がいるのだから、哺乳動物だったら猶更だ。


『動物が苦しむ姿は見たくない』

『美味しい肉が食べたい』
の感情が同居する事は矛盾しない。
食欲には勝てない。

生きるために見えない方が良い事がある。
見せない方が良い事がある。

百果一幸

しかし自分は狩猟を始めて良かったと心の底から感じている。
自ら獲物を仕留める事ができるようになって本当に良かった。
喜びも罪悪感も深く自身に刻まれた。

そもそも命を奪ってみたかったのか?
『語弊を招く表現かも知れないが~』
なんて前置きはしない。
この手で命を奪ってみたかった。
魚や野菜と同様に、
動物の命を奪うという経験を得る事で、

『そうやって自分は生きている』
という実感を得たかった。

鹿や猪を仕留め解体し精肉し調理し、

1枚の皿の上まで持っていって食べて、
自らの血肉にする。
その一連の行為を、どうしてもできるようになりたかったのだ。

前述の通り、当初はそんなに簡単に割り切り、そして吞み込めるような代物ではなかったのだが。

やってみた。
そして何とかできるようになった。
それは本当に嬉しかった。

狩猟を始めるにあたって他に何か目的はあったのか?
単純明快で我欲まみれの物が山程あった。

・買うのは高いので貧乏性としては手が出せない
(狩猟を始めた方がすこぶる高くついたが)
・魚と同様に獣も自分で捌けるようになりたい
・鮮度を自分で把握できている肉を食べたい
・毛皮を鞣せたらなんか格好良くないか
・1番落ち着く自然の中にいられる
そんな事もずっと考えていた。
全部叶った。
これも嬉しい経験だ。

人々の価値観に触れる事でいつかの己を振り返りもする。
「なんて残酷な!」
と言う方はとても優しい人達なのだなと感じる。
鉄板の上で焼かれる豚肉を前にしてそれを言われた時はたまげたが、
それは正に、命の繋がりを認識できていなかった過去の自分自身でもあった(自分は優しくないが)。

狩猟を始めなくても、目の前の食材や料理の前で手を合わせ、感謝の言葉を伝える事はいくらでもできた。
にも関わらず、生活の大半でそれをしてこなかった自分にはとても真似できそうにないが、
「山の神に感謝。」
と、獲物を仕留めたら大地に跪き山に向かい頭を下げる方に、どこか尊敬の念も感じる。

それぞれの気持ちが少しずつ分かる。
何か1つを拠り所にできない代わり、浅いながら大概の意見に一定の理解ができる。

価値観が中途半端でフワフワしているだけなのかも知れないがそれが自分。
その時そのままの感覚で進み、次の命に触れていく。
そして自分という命を形作っていく。

鳥獣による農作物被害。
フードロス視点のSDGs。
ジビエと駆除。

考えさせられる事が多過ぎて、
当初始めた趣味としての狩猟から、随分と在り方が変わってしまった。
『なんで趣味でストレス貯めてんだ?』
なんて、たまに思ったりする。

ただそれでも、やっぱり狩猟は面白い。
毎年欠かさず何かしらを学ぶ事に喜びを感じる。
自分にとって狩猟は絶対に価値がある。
許される限りは何だかんだと悩みつつ、
これからもずっと続けていくのだろう。

狩猟とは全く縁のない生活を長く続けてきたが、
小さい頃に1度だけ食べた頂き物の猪の味噌漬けを覚えている。
肉は硬く味はとても塩辛く、ほとんど味噌の味しかしかなった僅か数切れの肉。
だが、普段食べる機会のない肉を食べたという経験は、しっかり記憶の中に残っていた。
その程度の事をずっと覚えているのだから、
そういう意味では狩猟に向いていたのかも知れない。
やはり食には執着している。

もちろん牛・豚・鶏も大好きだから食べたい。
だが、これから先も自ら狩った獲物の肉を食べるために、更に狩りの技術を学びたい。
これからより笑って暮らしていくために、
前年度に獲れた獲物を食べながら、次の猟期を待っている。

食べる

その行為が自分の基軸である事を自覚した上で、
これからも先人達の教えを学び改善し続けようと思う。

そんな新米猟師が感じた事をまとめたブログです。

一流料理人があなたの劇的な料理上達にコミット!【RIZAP COOK】

狩猟
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エセ神戸は小食です意外ですねでもSNSは食い物ばかりアップしています。

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