執念の差
山ごと狩場を変える事になってから更に1週間が経過した土曜日の朝、
師匠が車に乗っていつも通りの時間にやってきた。
こちらもいつも通りの挨拶を済ませ、自分の荷物を積むために荷台へ移動する。
すると大量の罠が目に飛び込んできた。
間違いなく10個以上・・
先週まで罠を仕掛けていた山から回収した数より明らかに多い。
先週の見回りの際に目星を付けたポイントの数はせいぜい5ヵ所程。
自分だけでやってみろと言われ罠を仕掛けた時、
硬い岩を除去するのに手間取って1ヵ所で30分はかかった。
新しいポイントを探しつつ、
これだけの罠を今日1日で全て仕掛けて回るつもりだろうか?
そう思うと内心、ちょっと萎えた自分がいた。
しかし11月の猟期が始まってから既に1ヶ月が経過していた。
鹿・猪の猟は基本は3ヶ月。
長くても4ヶ月しか許されていない(地域ごとに異なる)ので、
獲物が1頭も獲れないまま、約3分の1が終わってしまった事になる。
「間の悪い時に来たなぁお前はかわいそーに。」
「あの柵さえ無けりゃあよぉ。」
あの頃は師匠からよく言われた。
こちらとしては山に入るだけで楽しく十二分に満足していたのだが、
猟果0にも関わらずそんな他人事では大甘だった。
今なら分かるが、
師匠はブーブー文句を言いながらもいつだって本気だ。
「もう狩りは飽きたわ。」
毎年そうボヤくものの、
ボヤきながら更に良いポイントはないかと山の奥へ入っていくのだ。
「(本当にこんな所に鹿とか猪とかいるのかな?)」
「(まぁそう簡単に獲れる物でもないっしょ。)」
という思いの新人と、
「(やる以上はキッチリ成果を出す。)」
という思いのベテラン。
それは1頭も獲れていない状況なら尚の事で、
狩猟に取り組む際の意識が全く違っていた。
今ではその影響で自分もどんどん奥に入っていくようになった。
一度ポイント探しに夢中になると、
5分もすれば大声で呼び合わないと互いの位置が把握できない程、
先に良いポイントを見つけようと2人共無言で突き進んでいく。
獲物を必ず仕留める執念という意味で、
弟子としてようやく師匠の足元位は見えるようになったかなと最近は思う。
罠猟の危険性
しかし当時はド素人。
たかだか数十~数百メートルの距離を登ろうとするだけですぐ転んだ。
急峻な坂。
堆積した落ち葉とその下にあるぬかるみ。
両手に猟具を抱えた状態でそんな地面を昇るので、
どんなに注意してもあっという間に足を滑らせてずっこけた。
平らに整地されていて当たり前のアスファルト道と比べ、
必要な筋肉の部位も使い方もまるで異なる。
今ではかなり慣れたとはいえ、それでも1回も転ばずに猟期を終えた事はない。
(稀に師匠も転ぶ。)
登りは前に転倒して顔をぶつけそうになり、降りは足が宙に浮いて尻を打つ。
とにかく岩にだけは体をぶつけないよう常に注意が必要だった。
さすがの師匠も息を切らしていた。
そんな山に入ったばかりの頃、よく師匠からこう注意された。
「降りる時は特に溝に気をつけろよ。」
道に車を停めてすぐ傍の急斜面を登ったとする。
そこで見回りや罠の設置を済ませた後なんかは、
「(もう降りるだけ。)」
という意識になって少し気が緩むものだ。
目の前に車が見えている時なんかは一層油断してしまい、
どうしても足元への注意が散漫になる。
そんな時、
運が悪いと道路脇にあるむき出しの排水溝は凶器と化す。
冬期の排水溝は落ち葉が堆積して、
ただの地面にしか見えない場所が多い。
それに気づかず降りて行った最後の最後で、
「(やっと鋪装された歩き易い道へ出られる!)」
と勢いよく駆け降り(または飛び降り)たその瞬間、
溝に足を突っ込んでスネを角に強打してしまうのだ。
前のめりに転倒し痛い思いをするだけならまだ良い。
仮にぶつけたスネや強くひねった足首が折れたりしたら・・
それが単独で山に入っていた状況だとしたら・・
更にそこが電波が届かない山奥だとしたら・・
罠猟は1人で出来る。
しかし、知らないと危険な事や知っていても1人での対処が難しい事も多い。
登山と同じく、山に余程慣れるまでは誰かと組んで取り組んだ方が良いと思う。
罠猟の魅力
どうにかこうにか怪我だけは避けて罠の設置予定ポイントまで到着。
先週に続き、2人で周囲を再確認した。
本当にそこは良いポイントか?
より良いポイントはないのか?
「やっぱりここしかないな。」
師匠がそう決めたらスコップで穴を掘っていく。
穴が必要な深さに達したら、暴発しない様に慎重に罠を設置する。
後は周りの景色に溶け込むように罠を隠す。
最後に注意喚起のプレートを目立つ所にぶら下げる。
さぁ次のポイントへ。
車へ戻り荷を積む。
真冬でも場合によっては大量に汗をかくのでこまめに水分補給。
ジッパーを開けて体温を少し下げたら、風邪を引かない様にまたすぐ着用。
運転中はタイヤがパンクしない様に、
悪路の中からなるべく平らな道を選び慎重に進む。
新しい、または見落としていた獣の痕跡がどこかにないか、
過ぎ行く景色の中を目を凝らして探しながら。
次のポイントへ到着した。
再び両手に猟具を抱え、不安定な地面を足を踏ん張って登っていく。
猟期中はこんな事を延々と繰り返す。
あの日、仕掛けた罠は7個程度だったろうか?
何をするにせよ不慣れで技量がまだまだだったし、
「(ここなら獲れる!)」
と思えるポイントもすぐには見つけられなかった。
そこそこ危険でしんどくて、超地味且つ成長が分かりづらい。
集団で行う巻き狩りのように和気あいあいとした楽しさもない。
多少なりとも成長を実感したのは3年位経ってからだ。
その代わり完全に自由だ。
あーだこーだと悩みながら、自分で判断して罠を仕掛け獲物に踏ませる。
掛かったら仕留めて解体し大量の肉を手に入れる。
その過程の中に大型獣の命を奪うというステップは不可避。
心のどこかに大なり小なり後ろめたさがズシンと残る。
だが、嬉しくないのかと言うと嬉しいのも間違いない。
罪悪感を内包したままやってくるあの達成感は何なのだろうか。
楽しいの一言だけで済ませられない楽しさ。
そこに強い魅力を感じている。
行くなよ 絶対に行くなよ
カリギュラ効果
カリギュラ効果(カリギュラこうか)別名カリギュラ現象とは、禁止されるほどやってみたくなる心理現象のことを言う。例えば、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、かえって見たくなる心理現象が挙げられる。- wipkipedhiaより
「俺が行ってやるからお前は見回りに行かんでいいぞ。人の気配が濃くなるしな。」
そう師匠から念押しされた。
罠は基本、1日置きの見回りが必要と言われる。
獲物が罠に掛かったら、時間が経てば経つ程苦しめてしまうし肉質も悪くなるからだ。
そうしないとジビエ料理を食べる以前の話で、
狩猟ではなくただ残酷な方法を用いた駆除になってしまう。
ひょっとすると、
「可愛そうだから半日置きに見回りに行くべき。」
「最高鮮度の肉が欲しいから1時間置きに見回りに行くべき。」
といった意見の人がいるのかも知れないが現実的ではない。
割ける労力や倫理観等を考慮した結果、1日1回と言われているのだろう。
しかしあまりに獣の気配がない時は、
敢えて2~3日に1回の見回りにする場合があるらしい。
見回りへ行く度、道に落ちた葉や枝は蹴り飛ばされて地面が露出していく。
そして踏みしめられて固く綺麗になっていく。
そうすると鹿や猪が、
「この辺の道だけ、急に歩き易くなっていてどうも変だ。」
と違和感を感じるのだそうだ。
衣類が枝葉をこすって洗剤・柔軟剤の臭いがつく可能性もある。
諸説あるようだが猪の嗅覚は犬並みと言われる。
無風でも500m先、
土中なら2m近く下の虫を発見できると言われておりとにかく鋭敏。
人間を遥かに超えるレベルで発達しているので、
猟師の中には猟期中は石鹸やシャンプーを一切使わない方もおられる。
(個人的にはそれはそれで臭いが出ると思うし不衛生なので絶対に嫌だ。)
そういった理由があって師匠は見回りに行くなと言ったのだ。
平日は仕事で時間の無い自分を気遣ってくれたというのもあるだろう。
まだまだ1人で行かせるのは危険だとも思っただろう。
しかし狩りへの執念はさておき、
ある種の情熱と言って良い程度の気持ちは1年目からあった。
新しい学びが毎回あるものだから、山へ入る事自体が面白くて仕方ない。
鹿や猪がいるのかも知れないと思うと一層じっとしていられなかった。
安全のため既に通った道や罠の場所以外は絶対に立ち入らない事にして、
何度も1人で見回りへ行った。
まだ狩猟をしていなかったが興味自体はあった頃に車を買い替えた。
その際は狩猟をする場合を想定し車選びをしたのだが、
結局は、
「そんな大きい車でどうやって細い山道に入って行くんだ?」
と笑われてとても恥ずかしい思いをした。
しかしその後日、新しい山に罠を仕掛けて回っている時に師匠は言った。
「この狩場ならお前の車でも入れるだろ。」
そこまで考慮して探し出してくれた場所だったのだ。
そんなんで行かんで良いと言われる物だから好奇心アクセルはベタ踏みだ。
無駄に大きな車が傷だらけになる事は重々承知。
殺風景な山の中へ、有休を取って1人で突っ込んで行った。
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