ナっちゃん
???
何を言っているのだこやつらは?
一瞬、そう思ったが即座に気を取り直した。
師匠はヘラヘラ笑っているが、
兄弟子は心からの善意で言っている事がビンビン伝わってくる。
ベクトルがまるで異なるが間違いなく2人共本気だ。
兄弟子は言う。
「こーれは食いで(食べ甲斐)があるよ~。」
師匠は言う。
「おちょぼさんなら相当高くつくぞ。」
おちょぼさんとは岐阜県海津市にある千代保稲荷(ちよほいなり)神社を指す。
川魚を提供する料理屋が多く建ち並び、
ウナギ・鯉・鮎が定番メニューとして載る。
中でもナマズの蒲焼が有名で、
サイズにもよるが高い物だとその価格はウナギを越える。
兄弟子の釣りあげたナマズは長さおよそ60~70cm、
横幅は広い部分で15cmはあった。
お店で注文すれば最高ランクの値段になる事だろう。
師匠は、自分なら絶対に食べないと豪語していたナマズを、
面白半分で食べさせようとしていたのだ(おのれ・・)。
確かにその日は野営に行く事になっていた。
しかしこんな展開は想定外だ。
鹿や猪を食べまくっていたので、
その日くらいは魚を食べようと思ってはいたものの、
頭の中はアジやカマスの干物や赤魚の粕漬け等、
手のひらサイズの子達ばかり。
カエルやヘビを丸飲みにする化け物の事なぞ微塵も考えていなかった。
そっと足元の網を引き揚げてみると、巨大な黒い化け物が暴れ回る。
・・重い!
無駄なあがきだと分かっていながら無駄に時間を稼ごうと、
素直に感じた事を半ば冗談交じりで口に出しながら振り返った。
「・・いやー重いっすね~ナっちゃん!」
すると大きな発泡スチロール箱を手にした師匠が視界に入った。
・・これはナっちゃんお持ち帰り確定ですね?
山へナマズと
剣鉈からウイスキー、そしてナマズへ。
兄弟子は釣りを続行し本命のスッポンを狙うのだと言う。
そ っ ち を く れ
とは言えないまま2人にお礼を伝えると同時に深々と頭を下げ、
後部座席で暴れ回るナっちゃんと共に帰宅した(ジジイ・・)。
そして腹を括った。
飼う訳にもいかないしこんな大物を逃がすのは兄弟子に申し訳ない。
味が気になるかならないかの二択なら当然気になるのだ。
せっかく頂いのだから食っちまおう。
ものの数分でそう思った。
自分も含め、やはり猟師はどこかおかしいのかも知れない。
帰宅後、大急ぎでシンクを洗浄しナっちゃんが泳ぐ発泡スチロールを丸ごとセット。
なにしろ川と言ってもそれなりに濁っている。
そんな所で暮らしていたナっちゃんはとにかく臭ったのだ。
主な原因は体表の粘液のような気がするが、
まずは体についた水草やごみを洗い流す必要があった。
2回・・3回・・
水質が綺麗になるまで水を入れ替え続けた。
そして納得できるレベルになった所でブクブク(エアーポンプ)で酸素を供給する。
ブクブクはそれなりに音がするので更に暴れるかもと危惧したが、
呼吸が落ち着いたのか少し大人しくなった。
(・・何やってんだろう俺?)
そう思いつつ、水が飛散しないようにラップで蓋をし、
更に落ち着かせるために上から布をかぶせて光を遮った。
キャンプ道具は既に車に積んでいる。
仮にナっちゃんが食べられない位にまずかったとしても、
酒は大量にあるしカップ麺を二つ用意したので問題ない筈だ。
2,3か月前まで狩場だった山へナっちゃんと向かった。
野営
野営は比較的地面の平らな場所を選んだ。
目的地まではそれなりの悪路。
道中、ナっちゃんが車内に飛び出してこないか心配だったが、
なんとか大人しくしてくれていた。
到着後、ブクブクがやかましいので目の前の小川にナっちゃんを網ごと連れていく。
網の先端がほどけて逃げられないように大きな岩で固定した。
後はいつも通りの野営準備だ。
軽くビールを飲みつつテントを設営。
ヘタクソながら買ったばかりのタープも建てた。
拾い集めた倒木をノコギリや斧で薪にして夜に備える。
そんなこんなしている内に全ての準備が整ったので、
椅子に座ってのんびりとまた酒を飲みだした。
小川のせせらぎを聞きつつ、スナック菓子を食べる。
・・徐々に気持ちが穏やかになっていく。
すると、ナっちゃんに変な情が沸き出した。
「(夜ご飯だな。)」
そう決めて自宅を出発した筈なのに、
いつの間にか可哀そうになってきたのだ。
立派なペットと言って良い位の大きさの魚が大人しく泳いでいる。
それもどう足掻いても逃げられない網の中で。
それが尚の事、可哀そうで愛着を沸かせた。
ここは自分以外に誰もいない山の中。
「いやー結構うまかったです。」
逃がした後はそう言えば良いだけなのでは?
澄んだ小川と用水路。
生活環境がまるで変わるのでエサがどれだけいるか分からないが、
小魚達はそれなりにいる。
どうしようどうしよう。
焚火を眺めながら逡巡していると、
どんどん酒が回っていつの間にか眠ってしまった。
非常事態
朝、小川を流れる水の音で目を覚ました。
いつ移動したのか記憶にないが、ちゃんとテントの中にいる。
体がだるい・・しかしずっと横になっているのも時間が勿体ない。
朝はまだ気温が低い時期だったので体が震える。
無性に腹が減ったのでカップ麺を探した。
しかし食料は何一つ見つからなかった。
あちこち探し回るが車にもクーラーボックスにもどこにも見当たらない。
・・・そんな馬鹿な!?
昨日は間違いなくあった!
カップ麺以外にもおつまみを多少は準備していたのだが、
それすら一切見当たらない。
そこで理解した。
・・猪か鹿、もしくは猿にやられたのだと。
酔い潰れて眠りこけている間にやられたようだ。
まさか熊か・・?
そう思った瞬間、ゾッとして慌てて腰の剣鉈を確認した。
腹は減ったがないものはない。
食べるのは諦めて、コーヒーを飲んでとりあえず体を温めよう。
そう思い焚火に向かうと完全に鎮火していた。
そういえば飛び火と延焼が怖かったので、周辺に徹底的に水を撒いていた。
そして最後の最後、
焚火に水を大量にかけて水浸しにしていた事も思い出した。
仕方なく1から火を起こすためにライターを取り出す。
しかし甘かった。
ライターのガスがゼロになっていたのだ。
熊のいる可能性のある山中、体は陽光を浴びても震え続けていた。
準備不足
鈍った頭をフル稼働させて体を温める手段を探す。
車のエンジンをかけて暖房を効かせれば済んだ話だったのだが、
大馬鹿な事に焦るあまり、
現場にあるアイテムで何とか火を起こさねばとその時は考えていた。
様々なキャンプ道具があるのに、
火を起こせないだけでこんなに自分が動揺するとは。
熊の事が頭をよぎると更に焦りは募る。
ライターに補充するガスは無い。
他の点火手段の持ち合わせもない。
5分位必死に考えた後、
急いで枯れた杉の葉や小枝をかき集めて薪の脇に積み上げた。
そしてガスランタンを点火した。
次第に明るくなる山の中で、ガスランタンの明かりは意味を成さない。
しかしランタンの放つ熱が必要だった。
新聞を破り先端をねじってこよりにする。
そしてその先端をランタンの発光部に突っ込み、こよりに点火させた。
こよりに小さな火が灯る。
慎重にその火を取り出して新聞紙に移し、
それから杉の葉に、枝に、薪に点けていって改めて焚火を起こした。
「・・ヌォォォ!!!」
喜びの余り小さく叫んだ。
アホか。
繰り返すが、車のエンジンをかけて暖房を効かせれば済んだ話だ。
お湯を沸かしてコーヒーを飲んだ所でようやく正気に戻り、
山を下りるために片付けの準備を始めた。
そこで気が付いた。
ゴミ袋に買って来た食糧の包装紙等が入っている事に。
本当に愚かな事に、
酒の勢いで前日の晩に全ての食糧を食べ尽くしていたのだった。
妄想の熊に勝手に怯えていた自分が馬鹿過ぎて呆れたと同時に、
安心して思わず笑ってしまった。
すると改めて猛烈な空腹が襲って来た。
そして思い出した。
いただきます
ナっちゃんは最早、食料にしか見えなくなっていた。
剣鉈を腰に差したまま小川へ降りて行き、
大人しく泳ぐナっちゃんの傍らにある石を掴んだ。
申し訳ないという気持ちがありつつも、
躊躇せず石をナっちゃんの頭部に数回叩きつける。
数分後、絶命したナマズは三枚おろしにされていた。
串を打ったナマズの身を調理台の上に並べ焼いていく。
焼き過ぎると身の量が減る気がして、
みりんと醤油で作ったタレを絡めた後にすぐ食べてみた。
身の味は悪くない・・が、皮がかなり臭った。
臭いを気にしつつも物凄い勢いで第1弾を食べ切ってしまうと、
自身の命の保証がされた事で求める食のレベルが上がる。
飢えなくて済んだ事を確信すると、もっと心に余裕ができた。
第2弾は皮をガリガリに焼いてみた。
臭みが完全に消えて全く問題なく食べられた。
巨大ナマズ一匹を食べ尽くした後でようやく、
ついさっきまでオロオロしていた自分が如何にさもしかったかを振り返る。
何も食べていないとはいえ、半日にも満たない短い時間。
それなのに、
周辺に手に入る食べ物が一切ないと知っただけでなんと見苦しく狼狽した事か。
「可哀そう。」
一時は本気でそう感じ、
ナマズに愛称までつけた挙句、逃がそうかとすら思っていたのに。
心に余裕がないと人間こうなってしまうのか。
心に余裕があるから他を慈しむ事ができるのか。
気楽に終わる筈だった1泊2日の野営は、色々と反省が必要な機会となった。
数日か数か月か、はたまたそれ以上の月日なのかは人それぞれだ。
しかし直近の未来の中に、
『間違いなく自分はそこに居る』
と断言できるだけの心の余裕がなければ、
少なくとも自分は冷静でいられないのだという事がよく分かった。
それから、キャンプ道具は十二分に用意するようになった。
過去の短い人生の間に起きた数々の大規模な自然災害は、
これから先も間違いなく起こるのは間違いない。
太平洋側に住んでいるという地域性もあって、
災害グッズは少しずつ買い集めている。
浄水器はあるしガスボンベや小麦粉等の備蓄も大量に準備した。
「いやー結構うまかったです。」
後日、
師匠からナマズの味の感想を聞かれた際に感謝の気持ちも込めてそう答えた。
そして今回の件があってから、
寄生獣というマンガで、
主役のミギーが人間を表現した言葉を頻繁に、
そして大真面目に思い出すようになった。
「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」
災害に限らず周りが余裕の無い時にこそ、
出来る限りヒマでいられる人間でありたい。
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