逃げる鹿と祈る猿
「首を狙えよ。」
11月の猟期開始直後から、毎週のように師匠にそう言われていた。
獲物の種類が何であれ、何かしら罠に掛かったら、
自分がその命を絶つ事は初めから決まったいたのだなと今になって思う。
狩猟をしているという自覚が無かった。
ただそれだけ。
「その槍を貸して下さい。」
目の前の雌鹿を仕留めるためにそうお願いすると、
師匠はあっさりと応じた。
「ええよ。」
すぐに車から2本のパイプを取り出す。
「(俺は一体何をしているのだろう?)」
「(あ~殺したくない。)」
そういう思いが自分の中で渦巻いているのに、
体は一切止まる事無く、ただ淡々と準備を進めた事を覚えている。
「(・・そりゃ殺さないと食べられないよな。)」
そんな風にも思っていた。
心の声に背を向けながら体を前のめりに。
体はただ命を奪うためだけに。
パイプを連結させて先端にナイフを装着すると、
あっという間に槍が完成。
専用ナイフや殺菌スプレー。
師匠に言われるがまま、解体用の道具を揃え始める。
解体用の道具一式を師匠が確認。
それも終わってしまったら、残る作業は1つだけ。
自分はただ槍1本だけを両手に掴み、
何とか逃げ延びようと飛び跳ねる鹿に近づいて行った。
ずっとこちらを見ている。
逃げてくれ。
逃げないでくれ。
殺させてくれ。
殺させないでくれ。
様々な気持ちがどんどんやってくる。
しかし止め刺し(とどめ行為)を変更するつもりは一切なかった。
自分が望んで始めた事だ。
自分が目の前の命を終わらせなければならない事は間違いなかった。
自分が一番わかっていた。
叫び
「・・首を狙えば良いんでしたっけ?」
鹿まであと5メートルという所で、分かり切った質問を師匠にした。
手順という意味でも気持ちの面でも、最終確認のつもりだった。
しかし、これ以上の説明は無意味と判断したのだろう。
ポケットからスマホを取り出し動画撮影を始めた師匠は、
こちらの動揺を見透かしたように笑って返した。
「・・自分の好きなようにやりなァ。」
それでようやくこちらの計画が決まった。
「じゃあ、頭を叩きます。」
首は狙わない。
激しく動き回る鹿を見て、
『素人が重い槍で動き回る動物の首を刺す』
そのミッションは非常に難易度が高いと感じていた。
太くて頑丈な骨がある首。
その中のどこを刺せば致命傷になるのだろう?
うまく1回で仕留めるイメージが沸かなかった。
そもそも槍の切れ味がどれ程のものなのかわからない。
本当にちゃんと刺さるのだろうか?
失敗したら2回目が待っている。
何度も何度も刺したくない。
だから、
『スコップで頭を叩き昏倒させ、その後は槍で心臓を刺す。』
という方法を考えていた。
Youtubeで見たベテラン猟師達は、
見事に心臓を一突きして仕留めていたが、
同じ事が自分に出来るとは到底思えない。
だから、まずは頭を叩いて動きを鈍らせようと考えたのだった。
これなら動き回られる状態よりも遥かに命中精度が上がる。
位置がイメージし易い心臓、うまくいけば1回刺して終わりだ。
仮に外しても首周辺の太い血管を切り裂いて、
致命傷を与えられるような気がした。
この方法が、1番鹿を苦しませる事も自分が苦しむ事も無いと思った。
背を向けて逃げる鹿の背後まで寄って行く。
ワイヤーは伸びきり、鹿はそれ以上は前へ進めない。
後頭部めがけてスコップを振り降ろした。
グゥェエエ!
鹿の悲鳴が山中に響き渡る。
重く低く短い悲鳴。
鹿ってこんな声を出すものなのか・・
激しく動揺した。
何やってんだ俺!
何やってんだ俺?
何やってんだ俺・・
しかし視線は外さない。
計画通り鹿はその場に座り込んだが、
気絶させる程の威力ではないと手の感触が言っていた。
今ならフルスイングできるが、動画を見返すと完全にビビっている。
反撃を受ける事にではなく、殺生という行為自体にビビっている。
慌てて1回目よりも力強く殴りつけると、
ピィッ!
短く高く鳴いた鹿は、ようやく腹を上に向けてひっくり返った。
言われるがまま
動揺しているのに、やはり体は動き続ける。
予定通り鹿は昏倒したので次は心臓。
スコップから槍へ持ち帰る。
すると師匠が言った。
「首を刺せ!」
「(えっ心臓じゃないの!?)」
一瞬そう思ったが、そう言えば
「頭を叩く。」
と言っただけで、それ以降の計画を師匠に伝えていなかった。
ひっくり帰ったとはいえ鹿はまだまだ元気一杯。
いつ立ち上がってくるかわからない。
今、話し合っている暇などない。
言われるがまま、首めがけて槍を突き出した。
ギィィィィッ!
鹿は地面に転倒したまま、4本の脚を激しくばたつかせて抵抗した。
「(どうしよう全力で刺してしまったもっと刺すのもう抜いていいのまだ刺し続けるの。)」
こちらはこちらで大パニックだ。
ものの数秒で恐ろしくなって槍を抜くと、
刃の先端に付着した血が確認できた。
浅い。
スコップで殴打した時と同様、槍の初撃もビビったのだ。
絶対に致命傷には至っていない事は明白だった。
早く2発目を放たなければ。
そう思い槍を構え直すと、
なんと鹿は物凄い勢いで立ち上がり四方八方を走り出した。
スコップで昏倒させた上に槍で刺したのに、
なぜそこで立ち上がれる!?
目の前の光景が信じられず、茫然自失してしまった。
そしてそこで体が動かなくなった。
しびれを切らした師匠が叫ぶ。
「もっと刺せ!」
それで我に返った。
「ハイ!」
焦りで次は首ではなく心臓をめがけて刺してしまった。
だが、運良くその1撃が効いたらしい。
瞬間、その場で鹿は真上に飛び跳ね、再び崩れ落ちた。
しかし明らかに動きが止まったものの、
横になったまま、首だけはこちらにもたげてじっと見ている。
「もっと奥まで刺せ!ぐーっと!!」
「ハイ!」
もうとにかく早くとどめを刺すしかない。
師匠から言われていた事をここでようやく思い出し、
今度こそ力いっぱい槍を首めがけて突き出した。
3発目。
ィ”イ”イッ”!!!
それが最後の叫びになった。
消える光
槍を引き抜くと刃元まで血がべっとりと付着していた。
全力で刺した3発目の手ごたえと、
ほとんど動かなくなった鹿、
今度こそ終わりだと感じた。
「血は出とるんか?」
そう言って師匠が近づいてくる。
「ハイ」
立ち尽くしたまま即答した。
だが鹿の首を確認すると、
「こんな程度じゃ少ないわ。」
と言われてしまった。
・・いやもうマジ勘弁してくれ。
もう絶対に死ぬって。
終わりにしてくれ。
これ以上、刺したくない。
心の中でそんな事を何度も考えていると、
その数秒後、鹿は1度だけ首を空に向け、そしてゆっくりと地面に横たえた。
それから左後ろ脚が3度、宙を蹴った。
それきり動かなくなった。
「まぁ、、良うやったわ。」
師匠が笑いながらこちらへカメラを向ける。
「(もう刺さなくて済む。)」
という殺生から逃げたくなる気持ち。
そして、
「(ついに獲物を仕留めた見たかこのやろう。)」
というやり遂げた気持ち。
その両方があった。
ただ、あの時は罪悪感の方が勝った。
カメラに向かって無理矢理笑って言う。
「僕を撮らないで下さい。」
その後は師匠に話しかけられるまで、
鹿の瞳をずっと見ていた。
瞳。
潤いを持ったあの力強く輝く瞳。
怯えていたのは当然だが、どこか反撃の気概も感じた。
言葉は通じないので答え合わせはできない。
それ自体に何の意味もない。
知りたがるのは自分だけ。
鹿にとってはどうでも良い事だ。
今のくすんだ鹿の瞳からは、生命の輝きは見あたらない。
土がかかっているのに瞬き1つしない。
それ位に乾燥し、潤いは消え失せていた。
敢えて閉じる必要はない。
敢えて閉じる必要がない。
自分自身がその命を完璧に終わらせた。
それは分かっていた。
もう戻ってはこない。
自分自身が完璧に分かっていた。
ごめんな。
勝手な言い分だけど、ありがとう。
勝手な言い分だけど、ちゃんと食うから。
獣と肉の中間にいるそれを、師匠と2人で慎重に運んだ。
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